富田林興正寺別院の歴史
はじまり
富田林興正寺別院(以下「御坊」)は京都にある本山興正寺(真宗興正派)の別院で、大阪府南東部の南河内と呼ばれる地域にあります。
「道場」「掛所」「兼帯所」等と称されていましたが、現在は「富田林興正寺別院」と公称しています。
由緒書によれば、興正寺第16世証秀上人が富田林周辺の四ヶ村(毛人谷・中野・山中田・新堂)の庄屋2人ずつに町づくりの要請をしたことにはじまります。
芝地の開発、御坊の建設、畑の開墾、屋敷地の整備、計画的な町割り等をおこない、寺内町の基礎を作ったとされています。
その後、商工業者をはじめ多数の住民が御坊を中心に集まるようになり、寺内町は発展しました。
戦国大名から禁制の発給をうけるなど、特権を与えられたことからも寺内町が特別な町であったことが伺えます。
永禄年間には活発な経済活動がおこなわれ急速に発展していきました。
江戸時代には富田林村だけではなく、近隣諸村の門徒によっても護持されていました。
江戸時代の後期からは京都の興正寺からの入寺もあり、あつく崇敬の念を集めた御坊であったことがうかがえます。
堂内の荘厳
本堂中央の須弥壇には御本尊(阿弥陀如来立像)が安置され、北側の脇壇には親鸞聖人の御影がかけられています。
南側の脇壇には本寂上人が、さらにその南画の余間壇には特別に厨子が設けられ開基である証秀上人の御影が掛けられています。
北側の余間壇には聖徳太子と七高僧の御影が掛けられています。
また、外陣と内陣を区切る襖絵は「竹梅図」と「松図」です。
狩野派の絵師狩野寿石(1639-1718)によって描かれたものです。
富田林別院を構成する本堂・対面所(書院)・鐘楼・鼓楼・山門・御成門は国の重要文化財に指定されています。